昭和48年03月18日 月次祭
月次祭の日だけ、月に四回だけ、私は必ず両親のところで、一緒に食事をするようにいたしております。もう母は毎朝出てきますけれども、父はもう、お広前に出てくることがようできませんので、私は月のうちに同じ屋根の下におりながら、合うということはもうその月のうち四回しか合わんのです。ですから、両親も月次祭の日を楽しみにしておるようですし、私もまぁ楽しみにして、一緒にお神酒を頂いたり、お食事をさせて頂いたりするわけです。
今日お食事を終わらせて頂く、としておる時でした、丁度テレビが何か薬の宣伝をしておるようでした。してその時になにか、「赤ちゃんがんばって下さい」という、そのまぁ、宣伝の文句の中にあるんですが、そのなんの為にそれいうたか分からなかったけれども、もう私は、それこそあの、心が震うように感動いたしました。赤ちゃんがんばって下さいて。それは私が、今日朝から考え続けておった事ですし、又今日幾つかのお取次ぎをさせて頂いて、そのことを実感しておったからだと思うのです。
今日午後の奉仕の時に、ここ四、五日やはり合楽までお参りしてくるためには、バス代、電車代もやはり千円ぐらいは使わなければなりません。やはり五時間ぐらいの時間を、さいてお参りをしてくる方があります。それは、まぁ私が聞いておっては、さほどなことではないと思うんですけれども、ご本人にとってはもう本当に大変な難儀な問題なんです。ほりゃやっぱりありますよね、お互いが難儀だといってますけれどもね、子供が難儀というておるのが、大人では難儀でないようなもんじゃないでしょうか。
信心とは段々、心が成長してまいりまして、今まで難儀と思うておった事が難儀ではない。いや難儀どころかお礼を申し上げねばならなにような事柄に、私共が難儀を感じとる場合があります。お礼を申し上げねばならない事にくよくよしたり、不足を言うたり。お礼を言わねばならない事に、腹を立てたりしておるような場合もあります。これは心が成長してないからなんですからね。
その方のお届けの内容も、私から見ると難儀な事ではないけれども、ご本人にとってはもう大変な難儀な問題。ですから、まぁあの手、この手もありましょうけれどもね、とにかく神様の、いうならば、ここに一つの奇跡を見せて下さいというわけなんです。本当にその人がいう事がおかげになると言う事だったら奇跡なんです。それでもその、その奇跡をね、目当てにして参ってきてる。
だからもうその代りに、私は一生懸命お参りをして来ます。必ず丁度私が4時の御祈念をさせて頂こうとする、二、三十分前に、参ってきます。そして、お話を頂いて、一緒に御祈念を頂いて帰られるんです。それがです、今日の御理解を頂いて、今日の御理解は、まぁ大変難しい御理解でした、今朝の御理解は。けれども皆さん、信心の目指しというか、目当てというものがです、ギリギリのところはこれ。これは私も昨日から頂いて、訳がわからなかった。
けれども、今朝の御理解を頂いてです、ははぁこれはこう言う事だと分からせて頂いたんです。例えば人が泥棒だというても、乞食じゃというても、腹を立ててはならん。と、信心の帯をしっかりせよ。という御理解がありますね。それこそ、まぁいうならば一番極端な悪口なんです。とりわけ例えば、取ってもおらんのに、泥棒といわれたりすりゃ、やはり腹が立つのですけれども、それを腹を立てなと仰る。
だから、しっかり信心の帯をせよという。問題はしっかり信心の帯がしておるとです、心の中に、俺が何時泥棒したかというのではなくてです、心の中に、それこそにやにやしたいくらいなものしか生まれてこない。だから信心の帯をしっかりせにゃいかん。なら信心の帯というのはどういう事かというと、いわゆるおかげの帯ではない。信心の帯なの。ね、その信心というのは、どういうことかというと、わが心が神に向こうのを信心というのだと仰る、教祖様。
それをね、こういう風に頂いたんです。「相対を超えねば絶対には至らない」という事。皆さん覚えといて下さい、大変難しい言葉ですから、その内容が難しい言葉。だから、そういうものだと知っておくだけでも大変おかげ頂くです。相対というのは、あの相対性原理の相対ですね、相対【あいたい】と書いて。を超えれば超えねば絶対には至らない。絶対ということには至らない。
絶対に徹すれば絶対の他、何もないと。絶対の他なんにもないというのはね、もう一切が神愛だ、一切がお礼を申し上げる事ばっかりなんだと言う事です、結論するとね、私共の周囲に起きて来る一切の問題を、そりゃ泥棒といわれる様な事であろうが、乞食だといわれる様な事であってもです、そこに問題が起きて来ても身の上にそれが、起きて参りましてもです、それはもう絶対ですこれは。絶対神愛以外にはないと言う事。
金光様有り難うございます、以外にはないという事。だからそういう世界に住まわせて頂くという事が、究極信心の目的なのであります。どうでしょうね、一切が有り難いとお礼申しあげる事ばっかりの世界に住むという事は、思うただけでも、素晴らしいことです。それがです、私共は、そういうおかげの頂けれる道を、もう誰にも分かるように説いておってくださったのが、教祖生神金光大神だと思うんです。
此の方のことを生神、生神というが、皆もそのようなおかげが受けられる。此の方がおかげの受け始め、皆もそのようなおかげが受けられる、生神とはここに神が生まれるという事であって、と仰る。生神とは神がここに生まれるという事なんだ。そういう例えば難しい御理解を頂いた。なら相対を超えねばと。というのは、私共が信心させて頂いて、はじめおかげを頂きたいばっかりに参ってきよる。参れば参るがたある。お商売でもさせて頂いて、参る、参れば参るがたあるから参りよると。
又はそこに大きな願いを持っておるからこそ、その願いが成就することの為にお参りをしよると。それにそれ、相対するものがない。その、その目当てがない。けれども、それを一つ超えなければ、絶対には至らない。まぁそこんところを、金光教の信心の、これはまぁ独壇場と思いますけれども、お互いが様々な難儀がある。痛いがある、痒いがありますけれども、おん取り次ぎを頂いてお願いをする。
そしてそのことはお取次ぎにお願いし、お任せして、いわゆるそのことはもうあなたに任せたという生き方が、お取次ぎを頂いての信心生活ですね。そういう信心の稽古をさせて頂く。そういうお話を頂いてです、今日ここで言われるんですよ。先生もし今あの私にです、おかげというものを超越しなければ、おかげを当てにして参ってきてはならん。ただ自分が神様んさえなりゃよか。自分が絶対の境地を開ける事の為に参ってこいといわれるならばね、もう元気が、もうそれこそ失せて終いますというのです。
お参りをする元気がなくなると。私はそれを聞いてからね、本当にもうほろりとしました。そうどころじゃあるまいと思いました。皆さんでもです。だろうと思うんですね、このことも願い、あのことも頼ませてもろうてね、そのことの成就、そんなことなんかは、当てにするなと。そして信心だけを、といわれてもです、いわゆるお参りする元気が出ないというのである。おかげを受けなければならんから、元気が出るのである。まだ漸くお参りをして五日あまりなんですね。
だからそれはそうだろうね、だからあなたの場合は、やはりそういうお願いなら、お願いごとで一生懸命お参りをしてくるうちに段々本当のことが分かるのですよというて、お話をしたんです。そすとところが、そのこう五日間の間にね、不思議なことが起こり出したち、自分の心の中に。というのはです、今まで同棲しておる、その人の、もうそれこそもう面も見るごとなかったち今までは。ところがね、その人の良いところばかりが見えて来るようになったと言う事。
その人のする事なす事が、腹の立つ材料であったのがです、もう全然腹が立たない様になったという不思議な現象がです、自分の心の中に起り始めておると。ほりゃ大変な事だね、これが大変なおかげにならないはずはないね、ていうて話した事でした。信心というのはそこにね思いもかけない、願ってもいない事が成就していってるんです。「目に見えるおかげより、見に見えぬおかげの方が多い」というのはそれです。けれども思いますね、是ももう本当にね、あの一心に参ってこなければそう言う事にならんです。
昨日久富繁雄さんが話しておられました。この頃朝の御祈念に参って来ると、あそこで、もうとにかく自動車が暑く、中、自動車から降りる。ぱぁともう走って「皆ここへ」きよんなさる。あの勢いを見ると、こちらまで元気が出る、勢いが出るというような意味の話しをしておられました。もうとにかく、まだお広前が電気が暗くしてる。だからもう暗いうちに、ここに入ってこなければですね、もうなにかおかしい感じがする。五時に電気がばっと点くんです。
四時からの御祈念で、いわゆる私の御祈念と一緒に合わせて真っ暗い中で御祈念をなさっておられる。そういう御祈念に間に合いたい。ですからもう、自動車がついた。もうとにかく、飛び降りるようにして、一生懸命でお広前掛け込んでくるという人達が、この頃非常に多くなったとこういう。信心にはです、例えば四時間かかっても、五時間かかっても、これだけはどうでもおかげを頂きたいから、その代わりにそういう信心もしますからといったようにですね、もう一心を持って参ってくる。
だから本人が願っておることがおかげになりよるか、なりよらんか分からんけれども、神様はその一心に対してです、それこそ自分で、人の足元どんみるな、人の悪い、悪かところどこなんか見るなと。腹を立てるなと。いわれたわけでもないのに、自分の心の中にです、今まで面も見ろうごつなかったというのがです、その人の良いところばかりが見えるようになった、おかげで腹が立たんようになった。これは自分ながら、不思議でたまらんと今日いうて、お届けをしておられました。
これは大変な私はおかげだと思いますよね。
私共がね、信心の例えば目当てというものをです、只今ここに申しましたようなところに、ね、絶対に徹すれば、絶対の他になにもない。例えばなら、文男先生当たりが、腹を立てない。これはもう絶対なものにしている。その腹を立てないという、そのこと一言だけでも、あのように、自分のおかげの上にも、又自分自身の助かりの上にも頂いておるわけですけれども。全ての事にです、お礼を申し上げれる心。全ての事に感謝する心というものがです、ただお礼を申し上げること意外にはない。
ただ有り難うございます、金光様以外にはないと言う様な、絶対の世界が開けて来たらです、どんなに素晴らしいことであろうかと。それは教祖生神金光大神の、専売特許でもなからなければ、大坪総一郎だけのものではない。ここに信心の稽古に通うて来る人がです、みんなそういう境地を目指し、願いとしてこなければならん。というて、こういう高度な、いうならば信心を目指しておるのであるから、おかげなんかはどうでも良いぞと、まぁいうてあるかに見えるけれども、お取次ぎという働きがある。
痛いなら痛い。痒いなら痒いとお届けをさせて頂く、どういう難儀を感じておっても、心配を感じておっても、そのことをお取次ぎを頂くと言う所からです、不思議に自分の心の中に、お取次ぎを頂いたから、これで安心と言う様な心が生まれてくる。来る時にはもう本当に、心配であったけれども、帰りにはその心配をここに置いて行けれるという、生き方がある。そしてそこから生まれてくる所の、いうなら一つの天地の中に、私共があるリズムというものを、感じ取る様なおかげが頂けれる世界がある。
どんなに難儀を感じておっても、一つのリズムというものがある。出らん声でもやはり影の一つの、伴奏なら伴奏があります、すとその伴奏にのって歌を歌うと、出ないはずの声が出るようにです、不思議な働きを現して来るようになる。金光様のご信心はですね、いうならこの絶対の境地を目指すというその過程がまた、実を言うたら素晴らしいのである。そこで信心にはですどうしても辛抱。三代金光様のお言葉にありますように、信心には、「神信心には辛抱する事が一番大切でございます」とこういう。
ところがです、そのここが辛抱ぞというところで、挫折をする。自分の思うようにならんともうそこで、又信心を止めてしまう。というような場合が、私は今日のテレビの、その中から聞いたです。「赤ちゃんがんばって下さい」という事じゃないだろうか。お互い赤ちゃん、何も分からない。分からないけれども、さぁそこを頑張っていかなければ、その絶対の境地といったようなものには、当たる事が出来ない。
昨日の、朝の御理解の中にも、御祈念中に頂いた事なんですけれども、「押坂忍【おしざかしのぶ】」というタレントの方がおりますね。押坂、坂を押すと書いてある。忍というのは、辛抱するという意味の忍という字。押坂忍。例えば坂を登る。もう一人じゃ登りきらん。後ろから押してもらわなければ、登られんほどしのところをです、忍んでいけと言う事だと思った。
そこんところをです、やはり辛抱しぬかないとおかげにならん。そこで何故辛抱しなければならないかという事をです、御理解の中に、これもあのテレビの中に、なんか交通安全のなんか宣伝をしておりますのに、この絵に描いた、この悪魔の老婆がこう手をしとるところが出て来るですがね。で、子供が横断歩道を通りよる。そすと、その車が来よるのにこっちお出でこっちお出でというような、何かそれこそ薄気味の悪い声を立てて笑っておるというような場面の、ところがあります。
その場面を頂くんです。ですから、お道の信心には、悪魔もなからなければ、罪といったような事も、罰といったようなこともないのですけれども、まぁ例えてお話をいたしますならです、悪魔というものは、いわゆる難儀の元をつくる悪。まぁいうものが悪魔であるとするならばです、人間が腹を立てたり、人間が苦しんだり。人間が病気をしたり、事故におうたり。人間がとにかく苦しむという事、悲しむという事を、悪魔の喜びとしておるわけです。
手を叩いて喜んでおる訳、これが悪魔なんですね、ですから私共はそれとは反対にです、もう普通でならば腹を立てねばならない様な所でも、腹を立てんですむ、いや反対にお礼を申し上げるような心というものが、段々頂けてくるようになったらです、もう悪魔のよりつく場がなかろうとこう思います。お互いがね、本当に幸せになりたいと思うならだからどうでも、悪魔と仲ようなっちゃいけないと言う事になります。
悪魔がよりつかん、まぁそれと反対に、「笑う門には福来たる」と言った様な事を申しますけれどもです、そういう福が欲しいなら、何時も自分の心がにこやかにあらなければいけない。ちょっとした事が腹が立つ。ちょっとしたことでくよくよする。直ぐ不足を言う、不満をいう。もういうなら悪魔の一番付け込むところがそういう場合ですから。難儀からおかげを頂いた。難儀から解脱したい。
おかげを頂きたいといくら願うても、頼んでもです、そういう例えば何時まで経っても、悔んだり、悩んだりしておるような状態では、何時まで経ってもよいおかげが頂けないと言う事が分かります。私共が信心が、少し分かり出してくる。少しありがとうなって来る。いうなら信心の芽が出る。喜びの芽が出てくる。そういう時に神様はね、それこそ「赤ちゃん頑張ってください」と。一生懸命そのところを、そういう願いを持って見ておられるところであろう。
それが頑張りきらずに、信心を止めたり、挫折をしたりして行く様な事であったら、本当に私は今日テレビを見せて頂いて、聞かせて頂いてです、私の心の中にもうなんとも言えん悲しさを感じたような悲しみをです、神様が又感じて下さる事だろう。信心とは私がおかげを受ける事。そして神様が喜んで下さる。私がおかげを受けると言う事が、金光大神が喜び神も喜び、氏子もの喜びと言う事にならなければならない。
それに腹を立てる。不平を不足をいう。そしてどうぞおかげ頂きます様にというて願うてもです、その願いでは本当な事にはならない事が分かるのですから、お互いが一つ本気で、不平不足をいわんで済む。腹を立てんで済む、稽古をさせて頂きながら、そこはじっと辛抱しなければおられない、それこそ泥棒といわれ、乞食と言われる様な事もあろうけれども、そこんところを信心の帯をさせて頂きながら、しっかり生神金光大神を唱えておすがりして行くうちにです、本当辛抱してよかったと言う事になり。
段々、その辛抱に徹底させて頂くようになるところからです、絶対に徹すれば、絶対の他に何もない。神様有り難うございます。金光様有り難うございますというだけの世界が開けて来る。そういう世界を、願ってお互いが信心をさせてもらう。けれどもね、そういう例えば、素晴らしい高度なところに焦点を置いてだけではです、今日私がお取次ぎさせて頂いたようにです、もうお参りする元気すらもなくなるとこういう。
元気が失せるというだからその事は、なら願ってはならんのじゃない。願っても良いけれどもです願ってお取次ぎを頂いたら、その事は先生に任せて帰ると言う様な、稽古が段々積まれていって、そして信心の道というもは、辿らせて頂かなければならないものだと。信心を絶対なものにするために、様々な信心の稽古を銘々で工夫をさせて頂く。そういう例えば教会を上げて、只今ここでいわれておる五つの願いと言った様な。
その、それは、内容が分かる分からないは別としてです、合楽の掛け声だといわれるくらいでございますから、お互いが訳は分かる、分からんなりにです、そのことを一つの掛け声のように、唱え続けさせて頂くところから、そこから、生まれてくる体験。同時に又、この二十日に総会がございます。一月後が春のご大祭。その御大祭を一月前の二十日に、何時も総会がある訳です。
いうならば大祭をいかに有り難く仕えさせて頂くかと言う様な事が、主な目的です。そう言う事はです、いうならば教会を上げて、その一つの事に取り組むという稽古です。二十三日は御霊様の御大祭といわれる、霊祭がここでございます。これは先祖の御霊様に対する真心の丈を尽くさせて頂いて、御霊様によろこんで頂く神様に喜んで頂くお祭りを拝ませて頂きたい。しかも合楽の信奉者全部がより集まっての、お祭りである。そういう例えばお祭り行事と言った様な事に参画すると言う事はです。
何とはなしに信心の訳は、分からんなりに、有り難い有り難いという、雰囲気の中にです、何時の間にか、有り難うならせて頂くという、一つの手立てでもあると思うのです。出来るだけ、だから教会あげての行事と言う様な事には、参加させてもらう。それは何時の間にか、信心の有り難いものが、血に肉になってくるおかげが受けられるのです。そこから一ついよいよ、絶対の他に何もないというほどしのです、おかげを頂いて行きたいと思います。
どうぞよろしゅうお願いします。